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    「まだつて、はじまつたばかりですよ」

    と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。

    「さあ、くはしいことは判りませんね」

    「――さうだな」

    市造は医者だと知つてすぐに起きなほつた。そして、房一が折鞄の中からまだ真新しい聴診器をとり出すのをたゞ無意味に眺めていた。誰に似たのか、市造は恐しく輪郭の整つた顔立ちだつた。あまりきつちりしているのでどこか寸がつまつて見え、硬い大人の面をかぶつた子供といふちぐはぐな感じにも見えた。たゞ、眼だけは紛れもない父親ゆづりの黒味のひろがつたあれだつた。

    「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つている方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結構だ」

    「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つていたさうぢやありませんか」

    富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて

    遠くの方で誰かが呼んでいた。

    だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら行く。

    「ふむ、もうよろしい、よろしい」

    「をかしな男だな」

    「いや、なに」

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